肝硬変肝移植プロローグ

2021年10月11日生体肝移植を受けました!

0歳で先天性胆道閉鎖症と診断されました。

1977年鹿児島市立病院で生まれるも黄疸がひどく、鹿児島大学病院にて先天性胆道閉鎖症の胆嚢除去空腸バイパス手術を行う。

1987年鹿児島大学病院にて手術痕の整形手術を行う。

1993年高校一年入学後すぐに胆管炎で入院。1か月で退院。

1997年大学2年胆管炎で入院。

1998年大学3年胆管炎で入院。病室で期末試験を受け、嘆願書を母親にもっていって貰って受験。(飲酒がひどくなったのが原因…?)1999年大学院試験目前で胆管炎で入院。受けられず。

2000年就職で上京してすぐに救急車で慈恵医大第三病院に運ばれ入院。会社の寮に住まう前に短期間同棲する予定だった彼氏(現:旦那)が、看病の為に上京してきた母と1週間同棲。覚えてないくらい胆管炎を引き起こすので

2012年東京大学医学部附属病院で胆道ドレナージを行う。

2015年同病院で胆管がんの疑いで肝臓1/3摘出手術を行う。

2020年同病院でERCP・胆道ドレナージを行う。

2021年2月黄疸値が下がらず、肝移植をしなければ余命半年と宣告される。「もう天寿を全うする。」と決心し治療を一時断念。

2021年6月末。二ツ目披露目を経て沢山のお客様からのお祝いや芸人の先輩方に「生きて。」と言われ、後輩たちに「黄色い姉さんに見慣れてましたけど、前は綺麗だったんですね。」と言われ、もうちょっと白くなって生きたくなったので、肝臓移植以外の方法を模索して貰おうとセカンドオピニオンを受けるも、移植しかないと。都内で移植数を持っている病院は東大医学部附属病院とのことで、出戻り。

2021年7月20年肝移植外来初診。

2021年10月11日生体肝移植を受ける。ドナー:弟から25%の肝臓を移植。

2021年11月18日退院。




闘病記は画像がえぐかったり、表現が酷かったりするので

余命宣告時の遺書

同じ病気の皆様へ。

この病気のおかげで私は強くたくましい精神力になり、楽しめる時間には限りがあるということを知りました。諦める悔しさは沢山味わいましたが、その分、今しかないと今を十二分に楽しめる生き方をしました。18歳で死ぬといわれ44歳まで生きてます。アルコールも浴びるほど飲みました。激しいスポーツもできました。妊娠7か月まで通ってたスポーツジムで「妊娠してますよね?退会してください。」と、クビ宣告を貰うくらい元気でした。でも、ずっと肝臓は邪魔をしてきました。無鉄砲な私を止めてくれたのかもしれませんが。だから、もう、気が合わない肝臓と暮らすのは疲れたんで、私は移植は拒否しました。外科手術も痛いし。ずっと痛い。出産の痛みは忘れたけど、肝臓切った時の痛みはずっと覚えてる。移植しても5年ぐらいの生存の場合もあるし、ずっと薬を飲み続けなければいけない。移植を希望する健康体の弟にも、その家族にも迷惑がかかる。そこまで長生きしてなんになるんだろう?病気と常に平行の面倒な人生だったので現状に満足している以上多くを望まないことを決心しました。生きることは諦めてません。ビジュアル系を諦めました。全身黄色いけど、落語を最後まで楽しんで行きたい。人生の最後にそんな稼業につけました。いろんな選択肢がありますので、闘病頑張っていきましょ!

余命宣告終えてから

が、半年経った今、余命宣告は当たらず、遺書まで書いたのに、人間というのは簡単には死なないとわかりました。最近疲れやすい、動悸息切れがするし、眠いのは肝臓のせいか、もうすぐ死ぬなと思っていたら、健康体の同年代の方も同じ症状で、年齢的なものだなと。黄色い身体がただ嫌で、お客様の前では白塗りの特殊メイクをしてひかないようにしてますが、半年どころか、まだ生き長らえそうで。この黄色い身体がどこまで続くのかが耐えられないのもあり、移植を検討することにしました。前言撤回すみません。

移植後撤回

2021年10月11日、生体肝移植をし、11月18日に退院して自宅に戻って参りました。今は無事と言えますが、一年間感染予防の為の対策、また胆汁還元も自宅で続いており、体内には未だ管や傷の縫合ステープラが残っております。今言えるのはただただ辛い闘病です。でもやって良かったと日々良くなって行く姿に喜びを感じています。ドナーに名乗り出てくれた弟、留守を守ってくれた母、自立した娘達という完全なるバックアップののおかげですが。おすすめは気軽にできませんが、生きる可能性に駆けるのも大事だなと思った次第です。